スターアルバイト烈伝
ルー大柴
ルー大柴
PROFILE

1954年1月14日生まれ。東京都新宿区出身。趣味は、どじょう、メダカなどの川辺の生き物を捕りに行くこと、馬のひづめに打つ釘を使ってアクセサリーを作ることなど。1992年『浅草橋ヤング洋品店』(TX系)の司会を務め、その個性的なキャラクターでブレイク。「トゥゲザーしようぜ!」のキャッチフレーズが示すように、会話の中に英単語を織り交ぜる芸風を得意としている。バラエティのタレントと思われがちだが、映画、舞台など役者としての素質も高く評価されている。

VIDEO MESSAGE
ルー大柴
ルー大柴からバイトルユーザーへの熱いメッセージはこちら。
Windows Media Playerは、動画、音声を再生するマルチメディアプレーヤーです。
WAV, AVI, QuickTime ムービー、 Real Video 、ASF(NetShow)、MPEG形式、MP3で提供されるデータを再生できます。お持ちでない方は、下のバナーよりダウンロードできます。
windows media player
バックナンバー
ルー大柴 Lou Ooshiba 海外での露天商、初めて芸能界のイロハを学んだ付き人の仕事…。昔からちょっと普通とは違う、ルーさんのお仕事体験とは!あの有名人のアルバイトにまつわるさまざまな話をお送りするこのコーナー。 毎回、下積み時代の隠れた努力や、おもしろいエピソードをお届けします。
ヨーロッパでやった露天商が初アルバイト体験!?

ルー大柴高校を卒業してからすぐに、1年くらいヨーロッパに行ったんです。若いうちに海外へ出て、いろいろな人間や世界を見ようと思ったんですね。それで、訪れた先でアルバイトを探そうと思ったんですけど、海外では「労働許可証」がないとちゃんとしたアルバイトはできないんです。皿洗いの仕事とか、こっそりやっちゃえばできるんだろうけど、でも「普通に皿洗いやるのも嫌だなあ」と思って。

そんな時、たまたまユースホステルで知り合った人が、馬のひづめを加工してネックレスやブレスレットを作っていたんです。その人に教えてもらって同じようなアクセサリーを見よう見まねで作って、路上で売ってみたんです。

手先は器用じゃないんですけどね。僕は不器用な人間ですよ。不器用なままでここまできたっていう人間ですから(笑)。まあ、お金がなくて何とかしないといけないと思っていたんで、とにかくやってみようと。

実際やってみたら、売れない日は「収入ゼロ」でそういう日もかなりあったけど、売れる日は1日で2万円くらいもうかっちゃうんですよ。結局1ヵ月で20万円くらい稼いで、その売り上げ金でまた旅行を続けられたんです。

最初は行き当たりばったりで始めた仕事だけど、やってるうちに楽しくなってきて。人に見られるのも楽しいし、路上で手作りのアクセサリーを売るのもひとつのパフォーマンスじゃないですか。そこで知り合った人もたくさんいるしね。

ロッテルダムのフリーマーケットだと、その当時の出店料が50円くらいだったんですけど、そこがまた「なんでも売っていい」みたいなノリで、昨日の客が今日は自分の隣に座って「ヒモで作った何か」を売っていたりと、そんなのんきでいい時代でした。
「グレイト」になるには付き人が手っ取り早いと勘違い

そうして海外を旅していたんですけど、じいさんが死んでしまったことや、他にもいろいろとあって帰国することにしたんです。帰ってきたときは「もうそろそろ役者をやらなきゃな、ちゃんと生きなきゃな」という気持ちでした。「何かを表現して“グレイト”になりたい」という夢は子供のころからずっと持ち続けていたから、気持ちが焦っていたんですよ。「とにかく何でもいいから表現者として成功したい」って。でももちろん現実はそんなに甘くなかったですよ。

実家は印刷屋を営んでいて、つまり僕は「跡継ぎ」で、会社の経理みたいなことをしないといけなくなったんです。従業員もいましたし、雰囲気的にそろそろ僕の時代だと周囲から思われてたんです。9時~17時で働いてましたけど、演劇学校みたいなものにも通ったりして、気持ち的には相変わらず自由な生活でしたね。

高校のとき、演劇を3年間やっていたので、演劇学校での成績は良かったですね。当時の僕は「スターに付いたら道が開ける」と考えていたんで、三橋達也さんの「付き人」になったんです。今考えてみると全然そんなことはなくて、ただの勘違いでしたけど(笑)。でも2年半の間、三橋さんに付いたことは非常に勉強になりましたね。その時の僕は「芸能界のイロハ」なんてまったく分からなかったですから、付き人をやってみて、それ相応にいろいろなことを教わりました。

始めたばかりのときは「何だよ、1日で辞めてやる!」なんて思いましたけど(笑)。それくらい付き人という仕事は大変なんです。

三橋さんは難しい人なんですよ。私の死んだオヤジと同じ「大正の人」ですから。今までの付き人は長続きしなかったらしくて、僕の2年半が歴代1位だったらしいです。辞めたときも、トラブルがあったわけじゃなくて、「自分をもう一回見直したい」「役者としてやっていきたい」ということを話したら、あるプロダクションを紹介してもらえたんで、それで付き人を辞めたんです。

「夢はあきらめない!」正社員の誘いを断る

ルー大柴ようやくプロダクションに入ったのはいいけど、やっぱり鳴かず飛ばずで、年に何回かしか役者の仕事が来ないんですよ。

実家を出て尾山台の六畳一間のアパートに、ベッドを一つ置いて住んでいたんで、演劇仲間に「なんかアルバイトないか」って聞いて、六本木のクラブバーを紹介してもらったんです。そこで働いているボーイたちもみんな役者だったんで、急に役者の仕事が入ったらシフトを変わってもらったり、そこのオーナーも前に役者をかじってたんで、そういう意味ではいろいろと融通も利いて助かりましたね。

そこでの仕事は、バーテンダーじゃないから、お客さんに水割りを運んだり、灰皿を取り替えたりとか簡単な仕事でした。でもそれはあくまでも生活のためのバイト。仕事は真面目にやってたし、あとは僕のしゃべりがウケたみたいで、オーナーから「店長にならないか」と言われたこともありましたね。でも僕は「夢はあきらめません」って断りましたよ。そこは1年ちょっとやって辞めました。

アルバイトで月30万円~50万円を稼ぎ出す実力!

ルー大柴そんなこんなで、アルバイトは14~15種類くらいやりました。

そうそう、赤坂の割烹料理屋でも働いたことがあります。カウンターに入って、といっても板前じゃないんですけど、着物なんか着て「はい、いらっしゃい!」なんて言いながら、ニシンの塩焼きとか、板前が作った料理や熱燗をお客さんに出したり。

僕にとっては、それもひとつのパフォーマンスだったんですね。そこでも「今日、大柴いる?」なんて言ってくれるお客さんがいつの間にか増えて、またしてもオーナーから「店長にならないか」って言われましたよ(笑)。そのバイトは1年くらいやったかなあ。

それから渋谷でインテリアショップの店長をやりました。オーナーがアメリカからアールデコの骨董を買い付けてきて販売するというお店で、何人も雇うような規模ではなかったので、自分が店長だったんですけど。始めたばかりの頃はアールデコのことをあまり知らなかったので、勉強しましたよ。※アールデコ:1910年代~30年代にかけて、パリを中心に西欧で栄えた装飾様式のこと。

そのオーナーがキザな男で、とてもじゃないけど自分とソリが合わなかったんで、ここも1年くらいで辞めてしまいました。当時はバブルがちょうど終わりかけてた時代でしたけど、まだまだ景気は良かったんですね。アルバイトでも月に30~40万円は稼げていました。

次にやったアルバイトが、商店街を回って百貨店のポスターをお願いして貼ってもらうという仕事。「1枚貼ってもらえたら、いくら」という出来高制の給料だったんですけど、僕の場合、しゃべりと押しを売りに、がんばっちゃうとアッという間にけっこういいお金になったんですよ。2日で50万円くらい稼いじゃったりして。
結婚式の司会がステージでの“しゃべり”の訓練になった

役者としては全然売れなくて、30歳過ぎまでいろんな事をやってましたけど、ちょっと疲れてきちゃったんですね。それまでアルバイトなんかでけっこう稼いではいたんですけど、アングラ劇団をやっていたんで、給料をもらってもその劇団に使ってしまうんですよね。結婚もしていたし、何より決定的だったのは子供が生まれたことですね。「(夢を)もう諦めよう」と思って、企画会社みたいなものを考えて、若手落語家をイベントにブッキングしたり、そんなマネージメントを自分で立ち上げてやってたりしました。

その他、結婚式の司会をやっていました。最初は式の決まりごとみたいなマニュアルを覚えるのが大変だったんですけど、「人前で話す」というのが大事な経験だと思ってがんばりました。最初は恥ずかしかったけど、人前で話したり場の空気を動かす、といういい訓練になりましたね。

少ない時でも1週間に1回は司会の仕事が入ってました。多い時は1日3回。ずっと立ちっぱなしだから足が棒になっちゃうんだよね。それでもけっこう楽しかったなあ。お金持ちに限ってチップをくれないとか、逆にそうじゃない人の方が気前がよかったりね。チップをたくさん貰うと「がんばって泣かそう」って思ったり(笑)。

結婚式の場っていうのは一つのステージなんですよね。もちろん主役は新郎新婦なんだけど、司会の力でグーッと盛り上げられるというか。

そういえば僕自身の結婚式の司会は、小堺一機くんにやってもらったんだけど、僕が司会そっちのけで歌を歌ったり、泣いたりしたんで、彼の思うようにできなくて戸惑っちゃったみたい。いまだに会うとそれを言われますよ(笑)。

すでに親父が死んじゃってたので、僕が最後の挨拶をしたんだけど「最後にみなさんに歌をプレゼントします」って、白いタキシードに用意しておいた赤いバスタオルをバーンと引っ掛けて歌いだしたら、小堺くんの顔が引きつってた(笑)。
自分の夢を仕事にできている人は“リトル”

ルー大柴十人いたら十人が自分の夢を持っていると思うんだけど、それが達成できなくて目的が変わっていく事もあるじゃないですか。だから若いうちにいろいろと経験して、合わなかったら合わないでもいいから、どんどん自分に適しているものを「キャッチキャッチ」していくべきだと思うんですよ。

自分にとって「その仕事が適しているかどうか」を見極めるのは、非常に難しい。適性が分かるまで時間がかかる。就職したけど「こんなハズじゃなかった」って言って辞めちゃう人って多いじゃない。そこで「耐えろよ」と言いたい。そこで1年でも2年でも踏ん張ってやらないと、その仕事の内容なんて分かんない。形だけに憧れて入ってきても、仕事ってそんなに甘くないから。グッと辛抱して欲しいよね。

僕はラッキーだったと思いますよ。遅咲きも遅咲き、34歳くらいからやっと売れ出して、今なんとか生きていますからね。

いつも思うんだけど、自分の好きなことで食っていくって大変なことだし、世に出ることも大変だけど、それを継続するっていうのも大変。「夢」を自分の仕事にできる人は“リトル”なんですよ。オールモストは挫折しているわけです。

50歳を過ぎても「役者になりたい」と言って、水商売をしながらまだ夢を捨てていない人がいますよ。でも結局、世の中に名が出ないってことは、正直、非常に厳しいじゃないですか。でも僕はそれも人生だと思う。

「夢があっていいですね」って、確かにいいかもしれない。でも、それを現実として“生活していけるレベル”に持っていくにはどうしたらいいのか、方程式はないわけです。何年もやったからってどうなるという事でもないし。「夢」だけ見てると現実は厳しいしとても大変です。「夢」を追いつつ、早く自分に合った仕事をみつけてがんばって欲しいと思います。
バイトル情報局