スターアルバイト烈伝
しりあがり寿
しりあがり寿
PROFILE

1958年生まれ。静岡県出身。77年、多摩美術大学のグラフィックデザイン専攻に入学。81年には、 キリンビールに入社し宣伝やパッケージデザインや商品開発を担当する。85年、会社勤めのかたわら漫画家として初の単行本を出版、その後も二足のワラジで作品を発表。94年に会社を退職、専業漫画家となる。00年『時事おやじ2000』(アスペクト)、『ゆるゆるオヤジ』(文芸春秋)にて第46回文芸春秋漫画賞を受賞。01年『弥次喜多 in DEEP』(エンターブレイン)で第5回手塚治虫文化賞「マンガ優秀賞」を受賞。05年、『弥次喜多 in DEEP』が『真夜中の弥次さん喜多さん』(監督:宮藤官九郎 主演:長瀬智也、中村七之助)として映画化。その他エッセイやお芝居や小説やゲーム作りなど多岐にわたり活躍。

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高田純次
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しりあがり寿 Kotobuki Shiriagariあの有名人のアルバイトにまつわるさまざまな話をお送りするこのコーナー。 毎回、下積み時代の隠れた努力や、おもしろいエピソードをお届けします。
「男おいどん」な生活に憧れて選んだ硬派なバイト

しりあがり寿僕がアルバイトをしていたのは大学生の時だけですね。最初にやったアルバイトは何だったか忘れちゃいましたけど、そんなにたくさんはしてないんです。4~5種類くらいですかね。

アルバイトの目的は純粋に“お金を稼ぐこと”でした。大学時代の生活費は仕送りでなんとかなっていたんですけど、やっぱり東京に出てくると、お金を使う機会がいっぱいあるんですよ。コンサートに行ったり、本を買ったりとか。それに美大生っていうのは、画材を買うためお金がけっこう必要なんですけど、提出課題が多くてアルバイトの時間がなかなか取れないんですよね。結局、お金がない上に暇もないから、学校の休みに集中的にアルバイトをしましたね。

経験したアルバイトは、酒屋の配送とか皿洗いとかですね。
なぜそういうアルバイトを選んだかというと、「アルバイトはキツいもんだ。そっちのほうがカッコイイ」っていうロマンがあったんですね(笑)。中学校の頃に読んでいた松本零士の「男おいどん」っていうマンガの影響なんですけど、「学生ってもんは、風呂も何にもない四畳半の部屋に下宿して、道路工事のアルバイトかなんかをたまにやって、休憩となればヤカンに口をつけて飲む。その中には日本酒が入ってる」みたいなイメージで(笑)。そういうアルバイトを経験するのが「硬派でカッコイイ」みたいな、そんなふうに思っていました。
デパートの飾りつけのアルバイトとかもしたことがあるけど、自分としてはそういのはナンパな感じだと思っていました。

普段、接点のない人たちとの異文化交流!

一番長くやったアルバイトは、八王子でやっていた酒屋でのアルバイトですね。2トントラックを運転して、飲み屋さんとかにお酒を配達する仕事でした。
駐車禁止の場所にトラックを止めて配達する事があるんで、それが嫌でしたけど、自分の中ではかなり理想的なバイトでした。自分が思い描いていたような完全に肉体労働のアルバイトで、けっこう大変でしたから。そのアルバイトは張り紙かなんかを見て応募したんですね。
アルバイト探しっていうと、昔はみんな張り紙でしたよね。

アルバイトをすると、自分の暮らしている環境では出会わないような、違う世界の人たちと接触するじゃないですか。酒屋のバイトだけに限りませんけど、それが面白かったです。元暴走族の人とか、おじさんになっても一生酒屋でバイトをしていますって感じの人とか。ちょっとマッチョが入った体育会系の世界というか、やっぱり美大とかいっちゃった自分の世界とは違うんだなって確認しましたね。そういう人たちを一歩引いて観察してるような感じでしたけど、そこが面白かった。

酒屋の配達は、1人の時もあれば2人一組でやる時もあるんですけど、元暴走族の人と組んで配達していた時に、一度だけその人に家に連れていかれた事がありました。配達の途中だったんですけど「ここら辺、俺の家の近くだから寄っていけよ」なんて言われて、怖いから「サボったらダメだよ」とも言えなくて、そのままついていきました(笑)。

その人は僕よりも若いくせに、結婚して子供もいるんですよ。それで家に上がってみたら、なんかよくわからないけど、小さい部屋に「何人家族いるの?」ってくらいいろいろな世代の人がゴチャゴチャいて、子供がいっぱい走り回ってるんです。 
この中の誰がお父さんで誰がお母さんなのか、そういうのがまったくわからない。僕が家に上がっても、誰が挨拶をするわけでもない。
座敷に座っていたら、すごくキレイでデコラティブなコーヒーカップを出してくれたんですけど、そこにコーヒー牛乳を注ぐんですよね。ああこの家はこういう文化なんだなって思いました(笑)。

元暴走族の人は、そういう人だったので、一緒に車に乗っていてもあんまり話す事がないんですよ。ただ、当時『瀕死のエッセイスト』(96年角川書店)の構想を練っていたこともあって、車の中で彼に対して、死について語ってたような記憶があるんですよね。「最近、“死”や“人生”について考えるんですよ」って(笑)。相手にしてみたら「嫌な奴を車に乗っけちゃったなあ」って思ってたんじゃないですか。“変なヤツ”という意味ではお互い様ですよね (笑)。

「世の中にはこんないい仕事がある!」と思ったアルバイト

しりあがり寿今思い出してもいいアルバイトだったのが家庭教師ですね。早稲田大学に通う弟に勉強を教えてもらいたいという生徒がいたんですけど、弟がちょうど留守で。兄はヒマそうだから、というので美大生の僕がやることになったんですけど、先方の不信感を乗り越えるためにけっこう頑張りましたね(笑)。小学校の算数を教えるわけなんですけど、色鉛筆を買ってきて、絵を描いて一生懸命説明したり、楽しく覚えられるように創意工夫して、早稲田の弟に負けないように頑張りました(笑)。

夏休みの20日間くらいのアルバイトでしたけど、いろんな意味でいい経験だったと思います。
「世の中にはこんなにいい条件の仕事があるんだ」って思いました。当時、皿洗いのアルバイトが時給700円くらいだったんですけど、その家庭教師は時給1,000円、クーラーが効いた涼しい部屋でおやつは出るし、そんなに難しい事を教えているわけじゃないし、楽勝じゃないですか。
世の中の労働には、割のいい仕事とそうでない仕事があるんだなって。そのためにはやっぱり早稲田大学に行かないといけないんだな、って思いましたよ(笑)。

流血事件で知った、世間の厳しさと常識!

しりあがり寿皿洗いのアルバイトは都内のとある有名ホテルでやりました。そのホテルにはいくつか洗い場があって、そこにアルバイトを派遣している会社に登録していたんです。僕のほうから「何日に仕事がありますか」って聞くと、どこそこの洗い場、例えば「今日はメインの宴会場の洗い場に行くように」という具合に指示されるんですね。時給は750円くらいで、当時としてはわりと良かったほうですね。
ただ、僕の住んでいた八王子から仕事場の芝公園まで通うのがものすごく面倒で。夜に働いて、次の日が早出という時は、24時間営業の喫茶店で寝ていましたね。お店の人に何度起されてもずうずうしく寝ていましたよ(笑)。

このアルバイトは、洗い場によって忙しさに差があるんですけど、特に宴会場の洗い場ははすごく忙しい。普通のレストランの洗い場では、忙しいのがランチタイムに集中しているだけで、そうじゃないときはボーっとしていられるんです。でも、僕はそのほうがイヤでしたねえ。ヒマになると一緒にいる人と会話しないといけないんで(笑)。共通の話題がないから面白くないんですよ。子供とか家族の話をされてもピンとこないし、競馬とかギャンブルの話はもっとわかんないし。そういう人たちがギャグマンガとか音楽の話をするとも思えなかったし、年が近い人もいなかったんですよね。でも相手もこっちのことを「面白くない奴だ」と思っていたでしょうけど(笑)。

あるとき、洗っていたお皿が割れてしまって、血がついたお皿がそのまま厨房に流れていっちゃったことがあったんです。そのときに「血がついた皿が流れてきたぞ」って、すごく怒られたんですよ。それまでの人生が甘えん坊だったとうか、血がついたお皿を見れば当然心配してもらえるもんだと思っていたのでビックリしましたね。今考えれば、そりゃそうですよね(笑)。怒られて当たり前だけど、その時はそれが社会なんだなって、当たり前の事を勉強しました。

パンクをBGMに、社会に自己主張をする

工場で“ICチップ”を良品か不良品かチェッカーで仕分けするアルバイトもやりました。夜の6時から朝の6時まで、延々と作業するんですけど、あれはなんかトリップしてしまいますね。ずーっとやっているといろんなコトがわからなくなってくる。
その工場はチェックが厳しかったみたいで、製品の半分くらいが不良品なんですよ。なので、分けなきゃいけないものがたくさんある。良品の所に間違って不良品を仕分けしちゃうと、もうわからなくなるんですね。でも長時間作業でトリップしてるし、「まあいいか」って作業していましたね。

その職場では、工場内で好きな音楽をかけてよかったんです。あの時代だったんで「YMO」をかけたり「セックス・ピストルズ」をかけたりしていました。自分自身、パンクバンドもやっていたし、そんな曲をかけることがちょっとした反抗だったんですね(笑)。そこだけ自己主張するっていう。で、黙々と不良品チェック作業をしてました。

様々な職種、職場を経験できるのがバイトのいい所

しりあがり寿デパートのディスプレイのバイトは面白かったです。バイトしているのがみんな大学の友達だったから、夜中に遊んだりしながらやっていました。社員を筆頭に、その下に友人のバイト頭がいて、僕は言われるままに“パラペット”っていう飾りものを張ったり、発砲スチロールを切ったり、販売台を並べたりとかしていました。ディスプレイと言っても、僕のやる仕事は全然クリエイティブじゃなかったですね。誰にでもできる(笑)。そのバイトはお給料がよくて、一晩で7,000円くらいもらえました。

どのアルバイトも、毎日必ず行くというタイプのものではなかったですね。やった期間も短いし。だからあまりアルバイトでは稼いでないんです。「バイトを辞めさせられたら明日から食っていけない」、みたいな感じでもなかったですし。だからアルバイトの世界で、あんまり辛い思いもしたことないです。

でも今思えば、「もっといろいろなアルバイトをやればよかったなあ」とは思いますね。昔の僕は、本当に世の中の事がわかってなかったんですよね。当時は「人間は全く平等だ」なんてプレーンな理想主義みたいなものがありましたけど、アルバイトを通してそれは間違いなんだなって思いました。世の中にはホワイトカラーの世界があって、現場との間には確実に距離があって、階級があるんだって感じました。それくらいアルバイトでの経験がいろいろと新鮮でしたね。

若いうちはいろんなアルバイトをした方がいいと思います。一つのアルバイトを長くやるよりも、できるだけキツい仕事をいろいろやった方がいいんじゃないですかね。いろんな仕事を体験できるのがアルバイトのいい所ですから。

僕はコンビニとかファーストフードとか、女の子がいる華やかな職場でアルバイトをしたことがなかったんで、それが今となっては悔やまれますね(笑)。

バイトル情報局